院長プロフィール
- 名前
- 堀江 富士夫(ホリエ フジオ)
- 生年月日
- 1961年(昭和36年)8月25日生まれ
- 血液型
- A型 乙女座
- 保有資格
- 鍼師 灸師
- 趣味
- 飲み鉄、富士山を眺める(富士山は登る山ではない!)
- 得意施術
- 腰痛(脊柱管狭窄症)、耳鳴り施術
業界歴
昭和63年3月 | 関西鍼灸短期大学(第1期生)卒業 |
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昭和63年4月 | 鍼灸免許取得 名古屋市・岡山市内の医院にて、理学療法、鍼灸治療に従事 |
平成4年4月 | 堀江鍼灸治療院 開院(岡山市) |
平成6年7月 | 潰瘍性大腸炎(特定難病疾患)で2ヶ月入院 |
平成7年7月 | 同院 閉院 その後知人の紹介で大阪に転出 クリニック・整骨院勤務 |
平成17年7月 | 堺市西区浜寺元町にて堀江鍼灸治療院 開院(現住所にて) |
これまでの歩み
1961年(昭和36年)8月 母の実家岐阜県関市で生まれる。
産婆の祖母の手で生まれた(らしい)
その後5歳の時、父の転勤で岡山市三門に引っ越し岡山市立三門小学校・石井中学校
岡山県立岡山南高校と進学
弓道部に入部し、3年間部活動に打ち込みました。
戦績は2年生の夏、岡山市総体で個人優勝
勉学?に励み、社会人へ
昭和55年4月、高卒で財団法人淳風会 集団検診部に事務職で入職2年後、倉敷第一病院に転属
治療者を志すきっかけ
倉敷第一病院は、救急指定病院でもあり、倉敷市内の中心部にあり多くの救急患者を受け入れていました。
転勤して間も無く、私にとっては治療者を目指す衝撃的な体験がありました。
救急連絡を受け、受け入れ態勢をとるため、各部署に連絡し、救急受付で救急車の到着を待っていました。
患者さんはひなちゃん2歳、5歳のお兄ちゃんと線路内で遊んでいて、機関車に撥ねられ、救急搬送されて来ました。
頭部に外傷があり、到着時には意識はなく、全く動いていませんでした。
いつも談笑していた、若いオペ室の看護師さん達は、ひなちゃんを抱き抱えるとすぐにオペ室に走り込み、レントゲン技師たちは、手術室にレントゲン機材を持ち込み、慌ただしく走り回っていました。
私は、ひなちゃんのカルテを作成するために、泣き叫ぶお母さんから必死に情報収集に勤めました。
しかし、泣き叫んでいるお母さんを前にして何もできずにいたことを、今でも鮮明に蘇ってきます。
救急医療の現場で、事務職員は患者さんの情報を素早く集めなければなりませんが、それでも後方支援です。
その時に、若い医療スタッフの活動を見て、医療の現場で働きたいと強く思いました。
なぜ鍼灸師に?
当初、病院勤務をしている中で、救急搬送された患者さんが懸命なリハビリに励みながら社会復帰をされていたのを見て、私も理学療法士になって患者さんのリハビリをしたいと思い、改めて勉強し直し、理学療法士の勉強をしましたが、当時は学校も少なく、学力も高いレベルを求められましたので、努力の甲斐なく断念。
その頃、テレビ番組で、これが東洋医学の力だ!という番組が放送されました。
深夜にもかかわらず、たまたま見ていた私は、衝撃が走りました。
鍼灸治療を使って、リハビリをしていたのです。
挙上できなかった腕が上がり、歩けなかった人が歩けるようになり、仮性近視の治療まで放映をされていました(のちに入学する関西鍼灸短期大学客員講師 内田先生の治療です)。
東洋医学で患者さんの症状が良くなる。
それから東洋医学に興味が湧き、調べていくと非常に面白い医学だとわかり、鍼灸師になる!と決めました。
昭和60年 大阪府熊取町にある関西鍼灸短期大学に第1期生として入学。
3年間の教育を受け、昭和63年4月鍼灸師の免許取得。
念願の鍼灸師になれました。
免許は患者さんを診れる許可書であって、患者さんを治せる保証書ではない!
鍼灸師になって33年
のべ10万人以上の患者さんの悩みを解決するために日夜治療に励んでまいりました。
今も患者さんのために常に研鑽の気持ちを持って治療を続けております。